玉璽(伝国璽)の歴史とそれ以前の権利の象徴・九鼎

玉璽

玉璽ぎょくじとは皇帝が使う印章のこと。これはまた帝権の象徴でもあり、玉璽をめぐってはさまざまなエピソードが残されています。

璽・玉璽とは

とは皇帝が使う印章のことで、玉璽ぎょくじは「ぎょく(主に翡翠ひすい)」で作られた皇帝の印章のことです。

璽はもともと印章一般を指しましたが、始皇帝以降「皇帝が使う印章」を指すようになりました。正式には「伝国璽でんこくじ」と呼ばれています。

権威の象徴…九鼎

玉璽は皇帝だけが使えるものですから、皇帝という権威の象徴です。ずっと昔からそうだったかというと、実はもともと王権・帝権の象徴は「九鼎」(きゅうてい…3本足の祭器で、夏王朝の創始者とされるが九州…全国のこと…に命じて集めさせた青銅で作ったもの)で、夏朝から朝、そして朝へと伝わりました。戦国時代が周を滅ぼしたとき、これを奪って秦に持ち帰ろうとしましたが、混乱の中で失われてしまいました。

鼎
かなえ。古代中国で祭祀に使われていました。

権威の象徴は玉璽に

始皇帝はB.C.221に中国を統一した後「和氏の璧」(かしのへき)と呼ばれる玉(ぎょく)を手に入れ、これを印章にして、失われた九鼎の代わりに天子(皇帝)の象徴としました。秦の第2代皇帝・胡亥(こがい)の死後、秦朝最後の皇帝・子嬰(しえい)は劉邦りゅうほうに降伏する際これを国璽として劉邦に捧げました。

大きさは4寸四方といいますから、約9センチ四方です。印面には「受命于天既壽永昌」と篆字(てんじ)で彫られていました。「命を天より受けたので永遠に隆盛であろう」という意味です。

玉璽の行方

この玉璽は(8~23)の王莽(おう もう…新の皇帝)から更始帝・劉玄(緑林軍にかつがれた皇帝)の元に渡り、劉玄が赤眉軍に敗れると、後漢(25~220)を建てた光武帝・劉秀に捧げられました。その後は後漢の皇帝が代々受け継ぎ、献帝(後漢のラストエンペラー)の時代に混乱によって玉璽の行方はわからなくなりました。

その後袁術(えん じゅつ…155~199)が玉璽を手に入れ、再び献帝の元に。さらに三国の魏から西晋等の国を経て南朝六国、隋、唐に伝わり、五代十国(907~979)以降再び行方がわからなくなって現在に至ります。その後の王朝は漢代の玉璽の模造品を代理として使いました。

玉璽にまつわるエピソード

玉璽の傷

新以降、玉璽には傷があったといわれています。前漢末に帝位を簒奪した王莽が、当時玉璽を預かっていた伯母の太皇太后に玉璽を自分に渡すよう求めると、怒った太皇太后が玉璽を投げつけました。そのときつまみの龍の角が欠け、のちに金でそこを補修しました。この補修跡が玉璽の真偽を見分ける証拠とされています。

これとよく似た話が曹丕とその妹の間にもあります。後漢末に曹操の息子の曹丕が後漢のラストエンペラーとなる献帝に禅譲を迫ると、献帝の皇后で曹丕の妹・曹節が同様に玉璽を投げつけたといいます。

孫堅と玉璽

歴史書『三国志』の記述によると、呉の孫堅(そん けん…155~191 156~192という説も)が洛陽で歴代皇帝の墓を掃除した際、とある井戸から五色の気が立ち昇ったためにその井戸を調べると、中から玉璽が出てきたのでこれをわが物としました。

『山陽公載記』では、それからしばらく後に袁術が皇帝を名のろうと思い、孫堅が玉璽を手に入れた話を聞いていたので、孫堅の妻を人質に取って玉璽を奪い取ったとあります。

『三国志演義』では、孫堅の死後その子・孫策は父が遺した玉璽を袁術に渡して代わりに兵を借り、群雄のひとりとして独立を図ったとあります。

孫堅、袁術、孫策と玉璽をめぐるエピソードは本によってさまざまで何が真実なのかはわかりませんが、ひとつわかるのは「玉璽」の重みです。これらの話からは玉璽を手にした者が天下人になる、という当時の暗黙の了解がよく伝わってきます。

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