後漢の歴史【成立から外戚、宦官による衰退の解説】

後漢

後漢前漢滅亡の後を受けて、前漢劉氏の血筋を引く地方豪族・劉秀、のちの光武帝が建てた国です。後に曹操の息子によって魏王朝が建国され、後漢は滅びました。

※上の画像は後漢時代に作られた銅車馬儀仗隊。

後漢とは

光武帝(劉秀)
光武帝(劉秀)。

後漢とは、高祖・劉邦が建てた前漢が王莽によって簒奪されてになった後、A.D.25年に同じ劉一族の血を引く南陽豪族の劉秀(B.C.6~A.D.57)、後の光武帝が挙兵して建てた新たな漢王朝です。後漢王朝は、初代・光武帝、第2代・明帝、第3代・章帝の最初の3代が政治の比較的安定した最盛期であり、その後は幼帝が立つことが多く、結果外戚や宦官の跋扈を招き、さらにはそこに士人と呼ばれる役人も加わった三つ巴の争いが起き、「党錮の禍」と呼ばれる役人への迫害事件が起きました。やがて皇帝自身が売官に手を貸すなど政治の腐敗激しく、民衆の暮らしは苦しくなって、太平道という民間宗教が力を持ち、黄巾の乱が起きました。これを契機に曹操、劉備、孫堅など有力武将が各地で挙兵して三国志の時代を迎え、220年に曹操の息子・曹丕が献帝から禅譲される形で魏が建国され、後漢は滅亡しました。

年表
年表。後漢は光武帝が新を倒し成立しました。

後漢の建国まで

前漢の外戚として権力を振るった王莽は、その後当時流行した儒教の讖緯(しんい)思想という予言を利用して帝位を簒奪し、新という王朝を建てます。

王莽はこの王朝で半ば伝説化されていた周代の政治の復活を試み、それは周代から1000年以上隔たる前漢末期の実情にはまったく合わずに、社会も経済も破綻の危機に瀕しました。

やがて山東の農村から赤眉の乱という反乱が起き、湖北では流民による緑林の乱、さらに南陽の豪族たちが漢室につながる劉一族を押し立てて挙兵しました。

農村反乱と豪族の反乱は合流し、王莽の政府軍と戦いました。

その中で頭角を現したのが劉秀、後の光武帝です。

王莽政権がもたないのが誰の目にも明らかになると、各地の反乱軍がそれぞれ自らが皇帝を名のって王朝を建てようとし、劉秀が最初配下についた劉玄は更始帝を名のり、その軍隊が都・長安に侵入して王莽を滅ぼしました。

当時更始帝の命令で河北で戦い勝利した劉秀は、後に更始帝とたもとを分かち、この地で即位して後漢王朝を建て、その年を建武元年としました。

更始帝は長安の地で政権を築くこともせずに宴会三昧の日々を送り、更始帝軍から離れた赤眉軍に滅ぼされます。

赤眉軍もこの地で略奪に明け暮れ、その後山東に戻ろうとしますが、光武帝軍に追われて投降し吸収されます。

光武帝

光武帝(劉秀)
光武帝(劉秀)。

後漢王朝を建てた光武帝・劉秀は前漢・景帝の子孫で、劉秀の時代は荊州南陽郡の豪族になっていました。太学に学んだ劉秀は、儒教の『尚書』という経典を修め、中国歴代王朝の祖としてはトップレベルの教養人です。と同時に優れた武人でもありました。

後漢の建国初期には全国各地にそれぞれ皇帝を名のる群雄が割拠し、これらを平定するのに即位後10数年の月日を必要としました。

光武帝の内政としては、奴婢と呼ばれた奴隷解放令を出して民衆の生活を安定させたり、

耕地面積や戸籍調査をして国家財政の基盤を整えたりしました。また貨幣を鋳造して流通させ、徴兵制度をなくして民衆が安心して農業に従事できるようにさせる一方、役人には儒教を学ばせました。

後漢前期

後漢前期、特に光武帝、明帝、章帝の3代は後漢の全盛期といわれます。後に見られるような外戚や宦官の跋扈は見られず、朝廷も社会もまずまず安定していました。

この時代は儒教、特に光武帝も尊重した讖緯(しんい)思想という予言や神秘に偏る思想や礼教が重んじられました。

文化面では、この時代に班固によって『漢書』が書かれ、許慎による『説文解字』という漢字の字体と解釈が書かれた画期的な字書が出ました。

章帝の次の和帝の時代には、宦官の蔡倫によって紙が発明されました。

第6代安帝の時代の張衡(ちょう こう)は天空儀や地震計を発明しました。

前漢の武帝によって開かれた西域との関係は、王莽の時代にその政策が反発を買い、西域は漢から離反して匈奴の影響下に入りました。

明帝の時代から再び西域に積極的に進出するようになり、『漢書』を書いた班固の弟・班超の活躍により、天山南道の西域諸国が漢に服属しました。

班超はのちに西域都護に任命されてパミール以東の西域諸国を攻め、これを後漢に服属させました。

西域諸国は漢が攻めると漢に服属し、漢の勢力が引き上げると再び漢からは離反してこの地の経営は安定しませんでした。西域では匈奴が目を光らせていたからです。

こうした状況にも関わらず後漢と西域の交易はそうした要因で遮断されることはなく、以後も続いて、中国の物資は西に伝わり、西の物資は中国に伝わり続けました。

またこのルートは仏教の伝来にも使われました。

後漢後期

後漢前期の安定期を過ぎると、後漢では妃の親族である外戚や、皇帝の側近である宦官が跋扈するようになっていきます。

後漢の皇帝は短命な人が多く、光武帝は63歳で亡くなっていますが、その子の明帝は48歳、その後40歳を超えて生きた皇帝はいませんでした(皇帝を廃されたのち長生きした元皇帝はいます)

3代目章帝は33歳で亡くなるのですが、章帝以降の皇帝はみな幼くして即位し、第11代桓帝が即位した時15歳だったのが最年長といいますから、如何に幼帝が多かったかがわかります。

皇帝が皆幼くして帝位に就いたことが、権力を代行する外戚や宦官の跋扈、横行を招く結果となったのでした。

章帝が亡くなると10歳の和帝が即位し、母代わりの竇(とう)皇太后(和帝の実母ではない)が摂政となり、皇太后とその兄の竇憲が権力を握りました。

やがて竇憲の横暴が目に余るようになり、少年和帝は『漢書』外戚伝を宦官に研究させ、宦官の力を借りてこれを倒しました。ところが今度はこれが宦官の禍の端緒となりました。

和帝は27歳で亡くなるのですが、子供が1人として育たないので、子供の1人を赤子のうちに民間に託して育てさせました。

和帝が亡くなるとその后である鄧皇后は、この乳児を即位させました。

ところがこの子も翌年にはやはり亡くなってしまいます。

そこで和帝と同じ血を引く13歳の少年を皇帝に立てて安帝とし、鄧皇后が実権を握りました。こうして後漢王朝には再び新たな外戚勢力が誕生しました。

後漢後期になると外戚と宦官の争いが激化していくのですが、宦官の方が優勢でした。

やがておおぜいの宦官が列侯という高い身分に就くようになり、さらにその爵位は養子を取ることで世襲が許されるようになりました。

三国志で有名な曹操の家は、宦官がこの制度によって伝えた家です。

後漢はやがて曹操の息子曹丕によって滅ぼされることになります。

外戚、宦官、役人の3権力と「党錮の禍」

外戚と宦官の勢力争いに、やがてもう一つの勢力が加わります。それは洛陽の太学で学んだ役人たちです。

まだ科挙がなかった時代、後漢王朝の役人は他の人からの推薦によって選ばれました。その基準は「人格」でした。

役人になるためにおおぜいの若者が洛陽の太学で学びましたが、それは人格を高めて人から推薦してもらうためでした。

人格を高めるとは、人格が高いかのように見せると言い換えることもできます。

人に見せなければ推薦してもらえないのですから、こういう傾向が出てくるのも当然です。

それはともかくとして、後漢王朝の役人選抜が「人格」だったことには初代光武帝の思いがこめられていました。

光武帝は、なぜ前漢が王莽による簒奪をゆるしてしまったのかを考え、それに抵抗する気骨ある官僚がいなかった、長いものにまかれるだけの人間しかいなかったことの轍を踏むまいとしたのだといわれます。

やがてこれらの人々…士人…儒学を学び「気骨の士」と呼ばれる人々は宦官打倒を叫ぶようになります。

これに対し宦官の側は、「党人」(徒党を組んで悪事をはたらく者ども)弾劾の上書(じょうしょ…皇帝への意見書)を出しました。

それを読んだ11代桓帝は怒り、党人逮捕を命じました。

これが第1次「党錮の禍」(とうこのか)です。この時は知識人の間に逮捕されるのが名誉であるという風潮が生まれました。

この風潮に危機を感じた宦官たちはやがて第2次「党錮の禍」を起こし、見せしめとしておおぜいの士人が命を奪われました。第12代霊帝の時代のことです。

それからしばらくは宦官が勢力を振るった時代でした。

宦官という身分の人間は一般に知識も教養も誇りも持ちません。人に見下される存在で、それがどうして権力を振るえるようになったのかというと、彼らは基本皇帝のプライベートな生活の中で皇帝に仕えたからです。

子供の頃から宦官と暮らした皇帝は長じて宦官に親しみを持ち、信頼を抱きます。

宦官の中にはもちろん優れた存在もいました。

紙を発明したといわれる蔡倫や明朝で大航海時代を率いた鄭和も宦官です。

少年和帝を助けて、外戚を一掃する際活躍した宦官もすぐれた人物だったといわれます。

けれども霊帝の時代、霊帝とその取り巻きの宦官たちはまともな政治など眼中になく、すべては金の、金の亡者でした。

霊帝自身宮殿で官職を売買するありさま、しかも掛け売りもあったといいます。

つまり官職をローンで売り買いしたのです。当然お金で官職を買った役人は、任期中金儲けにまい進します。

上が腐敗すれば人民の生活は苦しくなり、「太平道」という民間宗教が庶民の心を奪うようになりました。

「太平道」は病気治しの宗教です。いつの時代も貧しさは病を生み、貧乏人は神頼み以外に救いがありませんでした。

こうして『三国志演義』で最初に描かれる「黄巾の乱」が起こります。後漢が滅ぶまでもうまもなくでした。

後漢末期と三国志

宦官を取り巻きとし、官職を売る商売に励んでいた霊帝はそれまでの皇后を廃し、何氏を皇后に立てました。

後漢の皇后はすべて豪族から迎えましたが、豪族とは地方の名士であり、教養ある階層でした。

が、何氏は庶民階層の食肉業を営む家の出身でした。霊帝の時代は伝統も崩れ去っていたのです。

当時の後漢は疫病、洪水、干ばつ、異民族の侵入などが絶え間なく、窮乏農民は流民化するなど社会は不穏な空気に包まれていました。

その頃河北の鉅鹿(きょろく)というところに張角という人物がいて、黄老(黄帝と老子…道教のシンボル)の道を旗印に「太平道」という宗教団体を起こし、10年で数十万の信徒を集めていました。

この宗教団体は最初から組織化されており、全員が黄色い布を頭に巻いていたので「黄巾軍」と呼ばれていました。

太平道は、信徒たちにまず自分の罪を懺悔させ、「符水」と呼ばれる護符を入れた水を飲ませて病気治しをするという宗教でした。

やがてこの宗教集団は後漢打倒という目標を持つようになりました。

太平道、すなわち黄巾軍が決起したのを知って、184年後漢朝廷は軍を派遣しますが、黄巾軍はその指導者・張角が病死すると決起から1年も経たないうちに瓦解しました。

189年霊帝が死去すると、何皇后の子・少帝が17歳で即位し、何皇后が皇太后として実権を握ります。

その後何皇后の外戚・何進が宦官によって命を奪われ、後漢の大将軍・袁紹は宦官や宦官に間違えられた者2000人の命を奪いました。

その後地方の将軍・董卓が少帝を廃して献帝を立て、何皇太后の命を奪って自分が政治の実権を奪いました。

董卓は無法残酷の限りを尽くし、のちに部下の呂布に滅ぼされました。

この後董卓誅滅をめざした各地の群雄は、全国に散らばって割拠し、この中で魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権が頭角を現し、やがて三国志の時代を迎えます。

後漢は、最後の皇帝・献帝が曹操の息子・曹丕に帝位を禅譲する形で220年に滅びました。

後漢の社会と経済

後漢という時代は前漢に比べると、水害・干ばつ・イナゴの害・地震・疫病など自然災害が頻発した時代でした。そこに上記したように、宦官・外戚・「党錮の禍」など政治的事件も次々に起こり、後漢王朝を揺さぶりました。

この王朝の経済では、前漢時代のように国が専売制度を採るなど経済に積極的に関わろうという動きは弱まり、逆に地域社会による経済への関わりが顕著になっていきました。前漢で行われた塩や鉄の専売は停止され、章帝の時、財政難から復活したこともありますが、後に廃止されました。一方地方の豪族による荘園経済が発展し、自給自足的な経済が盛んになっていきました。貨幣経済も衰え実物経済が行われるようになり、たとえば税金も銭納から布帛(布地)納に、役人の給与も前漢時代の銭給から半銭半穀物支給となりました。

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